喧々諤々

ギリギリのところで生きてます

理解

鬱病に理解が無い人は絶対にいる。どう頑張っても理解できないとか、理解しようとできないとか、自分の理解が正しいと思いこんでいるとか。そもそも人間はすべての事を理解しているということはない。なにか無知であってこそ人間だ。

だがそれが身近にいると、まあ面倒なんだな。

最近外に出られるようになり、将来についても考え始めた。その矢先、父が「働いてないのはヘンでしょ。」と言った。

その瞬間、自分がいかにクズで、人として恥ずかしいのかを認識させられた。生きていてはいけない、そもそもこんな世界生きていけない。そう感じた。

鬱病に多いリストカットアームカットなどの自傷行為は推測だが自罰的行為なのだと思う。

鬱病患者には「自分は生きていてはいけない」「いるだけで周りに迷惑をかけている」「出来損ないの自分が許せない」というような自分嫌いが多い。

だから痛みや不快感を自らに与えることで、自分に許しを与えている。

自分を自分で責め、自分で自分を罰し、自分で自分を許す。

きっと一番いい治療法は自分の今の姿を受け入れることだと思う。人は何かを罰する権利を持たない。もし国にいるならば、その国の法律のみが人を責め、罰することができる。

人が人である以上、責める、罰することはしなくていい。

別にリストカットを非難しているわけではない。

上記の通り、痛みで許されると考える人は痛みを感じると同時に安心するのではないだろうか。

私が嫌なことがあるとすぐ自分の大好きな毛布にくるまって横になるのと一緒だろう。

 

 

もしリストカットしている人がいるなら、ちょっと読んでほしい。

リストカットに依存してやめなきゃ、って苦しんでたら。

傷つける前に自分は悪くないって思って。

私は無職、ニート、親の脛をかじって生きてる。きっと底辺だと思う、でも責めない。あなたは責められなくていい。

鬱病になったのは周りの環境のせい。

ひきこもってんのも周りのせい。

自分以外なら何を恨んでも憎んでも責めてもいい、

あなたは悪くない。

罰する必要はない。

居場所がなくて助けてほしいなら

 

私がここにいます。

あなたが明日は笑顔に慣れますように。