2020/05/29問診
道東は気温差が激しいので頭痛や目眩、立ちくらみが増えている。それに伴って寝汗や悪夢などが引き起こされているかもしれない。
就職活動について、今はコロナで就職は厳しいかもしれないが、少しづつ始めていくぶんには問題ない。
もし就職先が見つかったのならうつ病であること、薬を飲んでいること、療養していることはなるべく言ったほうがいい。
注射、採血がだめな人
採血されると
目の前が白く(黒く)なる
全身の血が下に行くような感覚
意識が遠くなって、今にも倒れそうになる
冷や汗
「グーパーして」と言われても力が入らない
量が全然採れない
刺される前から既に気分が悪い
小学生の頃から悩まされてきた症状たち。
調べると『迷走神経反射』というものらしい。
あってるかどうかはともかく、『迷走神経反射』で検索すると大体同じ症状が出てくる。
対処法は簡単。
寝た状態で採血してもらう。
大体の先生は「血を採られると具合が悪くなったり、あまり採れなかったりするんです。」と言えば寝た状態で採ってくれる。
多分こういう人は案外多いので、看護師さんも慣れてるし、優しく接してくれる。
大きい病院だと採血室みたいなところに背もたれのある椅子とベッドが置いてあるし、他の病院でもベッドがあるところで採血してくれる。
あと今は注射器でぢゅーってやられるんじゃなくて機械で勝手に吸ってくれるんですね。
針刺さってるのが怖くて何も見れなかったけど、看護師さんが一旦いなくなってカーテンかけてくれたので、もう手動ではないのね。
自己防衛手段
私にとって、他人の言葉というのは凶器でしかありません。たとえどれだけ友好的であろうと、自分に向けられるその人の感情というだけで恐ろしいです。誰かが大多数に向けて放った言葉はそれなりに耐えられるのですが、一対一の対話は苦手です。他にも他人の会話を聞くのも辛いですし、他人の携帯、動画、テレビの音はなるべく避けたいものです。ですが年末が近づくにつれ、様々な人が家を訪れます。狭い家に10人近くの人が集まると、これがどうしてしんどいのです。テレビはつけっぱなしですし、酔っぱらい同士が大声で喋っています。動画を大音量で流し、静まるということがありません。こうなってくると私はどれだけ抗不安薬を飲んでも気分は落ち込み、頭痛、吐き気、過呼吸、目眩と戦い続けなければなりません。周りはちゃんと生きているのに、自分はどうしてまともに生きることもできないのかと自己嫌悪に陥り、自殺という選択肢が頭に浮かびます。
こうなると、他人と同じ部屋にいる限りまともな思考はできません。動けなくなる前に、逃げようと思えるうちに行動しなければなりません。私にとっての自己防衛手段は狭い空間でひとりきりで音楽を聴くことです。暫くぼう、としていると心が落ち着きます。
ですが、これを周りに理解してもらうのはなかなか難しいもののようです。
部屋に篭ると誰かが戸を開けて、大丈夫、と声をかけます。車に引き篭もろうとすればどうして、なんで、と質問責めにあうのです。
誰も彼もが私を心配して声をかけていることは承知しています。
ですが私は一人にならないと回復できないのです。そういう人間なんです。
大多数の人間が楽しいと思うことが、私は楽しくなかったり、世間の常識を受け入れられないときがあります。
それを直す体力も気力も今は無いのです。
どうか休ませてください。
感嘆
高校の中央階段を3階から2階に降るとき、教室の壁上部にある窓から少しだけ外の景色が見える。
晴天の日なんかは絵画のように真っ青な四角い空が眩しかった。
6時限目になるとその四角い空は夕暮れに染まり、更に美しい。
ずっと見ていたい。そう思っても立ち止まることはできなかった。後ろにも前にも同じ制服を着たクラスメイトがひしめいて、ただただ流されることしかできなかった。
何より悲しいのはその景色を美しいと言うのが憚れることだった。
普通は夕日を見て泣きたくなるほど感動しない。
ただ空が美しいだけで立ち止まりはしない。
もしそんなことを言おうものならセンチメンタルだと嘲笑されるのだろう。
感受性が高い人間はそうそういないものなのか。
文学少女
うつ症状が出てからは本が読めなかった。
まず本を開く気力がない。体が動かない。
もし本のページをめくれても、文字の意味が分からない。
この感覚は本当に不思議で、体験してみないと理解できないと思う。
例えば「私は家から駅まで、ゆっくりと歩いた。」
この文章を見たときに、「わ」は分かる。
「私」は一人称を意味しているのが分かる。
「私は家から」ここまでくるともう頭の中で処理ができない。
頭の中では、「わたしはいえから、わたし、わたしは自分のことで、いえから、いえから、いえ、から、家、自分の住む場所。あれ?さっきはなんて書いてたっけ、わ、た、し、の、自分の家ね、そこからどっかに行こうとしてるのか。」こんな感じ。
言葉の意味はなんとなく、朧気に、分かる筈。
でも文節が三つ四つと続くうちに何を書いてるか忘れ、その状態が続くと遂に目が文字の上をすぅー、と滑っていく。それに気づいてもう一度。それでも駄目で、更にもう一度。
それを繰り返してようやくピースがハマったようにきれいに意味がわかる。
そしてまた新しい文章が出てくる。
まあ私はだいたいこんな感じだった。
そのときは一度読んだ本を何度も何度も読み返した。
ラストシーンも終わりの言葉もわかっているのに何度も読み直した。
なので今の私が好きな本は昔から何度も何度も読んでいる時代遅れの小説ばかりだったりする。